自己紹介等

自己紹介の為の文書。
ぼくを理解する一助になるかというとそうでもないような気がしてきた。
年表は下が古く上が新しいです。 住んでる所の変遷で適当に色分けしてます。

最終更新日 2003年8月22日

ハンドル: タカアキラ ウ
本名のアナグラムなのだった。アナグラムと言う程のものか。たかあき うらというのが本名なのだがたかあきという漢字が なかなか漢字変換されにくく、たかあきらと入力しないと変換されなくて、図書館でカードをつくるだとか、 いろいろな際に口頭で 「たかあきら」、または 「たか」 と 「あきら」 などと別々に変換させてたので、あと名字でしか呼ばれたことが なかったので名前で呼ばれてみたいとつねづね思っていたから。名前で呼ばれたことは本当にないねぇ。 ハンドルにファミリーネームなんてそもそも必要ないのと 、" ウ "姓 なんて絶対存在しなさそうで面白いと思ったから、後ろにつけてみました。 ファーストの方を先にしてるのは国際標準。なんちって。 全体的にとくに意味はないです。声にだすときに" ウ "までつけたりしなくても良いです。 しかし、最近ではうー君うー君と呼んでくれる人がぼちぼちと現れ呼称問題はなかなか予断を許さない 状況であります。 氷室冴子とも清水文化ともギタリストとも関係ないのだ。

出身地:鹿児島県
生まれたのは種子島だったらしいのだけれど、その後物心つく前に鹿児島県内を点々としているので、 出身はどちらですか?と聞かれるとちょっと考えてしまう。 一応一番長く過ごした与論島を魂の出身地ということにしようかと思うのだが、 実家があるわけでもなく。帰るに帰れないのだった。

趣味:読書等
履歴書の趣味の欄に読書や音楽鑑賞などと書くと私は無趣味ですといっているようなもんだぞ。 と言われたりするのだけれど、テレビゲームです。とかアニメをみることですとか言うよりはまあ誤解されにくいのではなかろうか。 逆に聞きたいんだけど、全く音楽も聞かず、全く物語にも触れてなくて、本当にサーフィンとかスノボとかスクーバダイビングだけしてる人 とかいるの? 小説が好きだというわけではなく、物語を表現する手段の一形態としては小説がどちらかというと好きなのだ。 だからゲームも漫画もアニメも好き。でも好きと言う割にはどれもこれも読んだ端みた端から 忘れていくので決して濃くはないのだった。

年表 年の表記は年度と理解するのが正しいかも。

03年 転勤
横浜に引っ越す
横浜市。この時の引越しはしんどかった。 三部屋→四畳半一部屋は悲しい。 都会の住宅事情は厳しいね。 元を取るために、今の所に最低でも4年は住みたいところ。 いや、何しろ狭いからねぇ。結婚して出て行くのはありだね。妻!妻! 横浜ははいからなイメージをもたれやすいですが、 都会の振りをしているのは、みなとみらいとかの狭いところだけで、 京浜東北線だか、東横線だかを越えたところからこっちはかなり泥臭いところと見た。 まあ、悪くないところです。 T−CON2003に行って来たですよ。
02年 特記無し 2月にCATVに加入して常時接続になった。もっと書くことはないのかしらん。まあ日記をまともにつけ始めたのであとは 日記を読んでいただけたらぼくのことはわかるかもしれない。こんなに長い自己紹介もないね。

というページを作ってからほぼ一年経ったので更新してみます。 新潟市は言うほど、雪が降らないいわゆる豪雪地帯は山側のほうですね。 雪雲が佐渡でぶつかるとかするのかな。積もるほどの雪はそりゃなんどかあったけれども。 たいした不都合はなかった。暖房もあったので、東京時代の方が寒かった。持ってなかったから。 思えば、ここでは広いうちに住んでたので、引っ越すにあたって、なんやかや処分しなければ ならないのが辛かった。全自動洗濯機君とか。次に入るのが知ってる人なので引き取ってもらったけどね。
01年 転勤
新潟にお引っ越し
程良く都会でちょっと自転車に乗れば田舎っぽいところにいけたりするのでぼくは気に入っている。 途中弟がころがりこんできた。良い仕事紹介してやってくれ、ください。 第40回SF大会未来国際会議に当日スタッフとして参加したっけ。 へろへろになったなぁ。スタッフも面白いよ。またやりたい。
00年 引っ越しを伴わない異動あり 2000年か、ZEROCONとSFセミナーとDASACONに行ったかな。田舎に帰るのにヒッチハイクを経験したのと、 その後しばらくして祖母がなくなったことが特筆すべきことかな。もっと書くことはないのか。えっと、プレミスコン2に参加したな。そんなんばっかりか。
99年 卒業
中野にお引っ越し
東京にあこがれや思い入れはなかったけれど、都会だから便利な所と不便なところと両方あると思った。 そうそう、インターネットの設定を友達にやってもらっていたぼくだが、 ここの仕事では NEC の EWS をほぼ常に使わなければならないのだった。 がーん、UNIX ですよ。 コマンドラインですよ。 CUIですよ!! Win 95 からパソコンに触れば dos プロンプトの存在も知らないのが普通ってなもんだ。 しかし、先輩らの指導もよかったのだが、そっちの方が面白くなってしまった。 おうちで UNIX 見たいな環境を作るために Linux に興味を持ち始めたのがこのころ。 無料ってのが好感度高しじゃないの。ホームページも7月くらいに作ったよ。当時は Nifty にあったのだ。
98年 就職
舞鶴にお引っ越し
夏頃から nifty に入ってノートPCでネットにつなげられるようになった。 当然設定は友達にやってもらったっけなぁ。Nifty だったので、FSF にも入ったよ。 与論をでてからずっと北上を続けてるわけだけど、舞鶴の夏は暑かったな。 というより、秋にはきちんと紅葉して、冬には雪かきする程雪が降ったりするので、 大半の日本人はやはりこういう気候を日本だと思うのだろう。 と想像した。まあ、田舎に田んぼがない人の言うことだから。気にしないでね。 土日を利用して CAPROCON1 に行ったり、 京フェスに行ったりしたっけ。舞鶴からは 京都まで行くのが一苦労ですよ。 マンガカルテット結成の時に居あわせるとかしたね。ホームページを持ってれば、良かった。 第一回の DASACON にいけそうになかったのでアポ無しで FAX するとか。 いやー、あれ受けが良かったみたいで良かった。ネタのしこみに一日近くかけたからね。 ここには写真へのリンクがあったのだけれど、悪用されたので止めました。
97年 二年生
就職活動など
などと、余り熱心でないだらけた学生時代を過ごしたものの、 やはりSFファンになったからには物理の一つも分かっておかねばねばならん。 とさらなる勉強を決意。しかし、もう親にはお金を出してもらえないので就職しながら勉強できる ところという選択をすることに、試験科目に物理があったのだが、 高校で選択して無かったので一週間物理漬け、 果たして結果はというとマークシート方式だったので、 いくらかサイコロの目に助けられて合格。 サイコロの神様ってのはいるみたい。TRPGをやってて良かったと思ったね。 しかし、単位がぎりぎりだったので這々の体で卒業することとなった。インターネットで投票するベストSF(森下ベスト)に初めて投票したのがこの年だ。みんなもっと投票しよう。
96年 短大一年生
防府にお引っ越し
やる気が出るまでしばらく、バイトなどをしたかったのだが、 親のたっての希望で進学することになった。 私立の短期大学に行かせるのは本当に大変だったと思う。すまないと思う。 しかし行ったら行ったで、勉強しまくったかというとそうでもなく、アルバイトばかりしていたのだった。このときのバイトというのがはやらないゲーセンの店番なので、授業終了後7時間店の奥で客の動向を 監視してればいいのだ、本を読んでいても怒られない。SFを読み始めたのがこのころ。 はす向かいの本屋で一冊買って、バイトしてる間に読み終わるとか、そういう生活 飯代を削って読むとか。古本屋を利用するという知恵があれば良かったのだけれど。まあおかげで体重が 95kg から80kg に減ったか。ズボンが全部はけなくなったっけ。 これで学校に行かなくていいならいうこと無しだがそういうわけにもいかなかった。 SFを読みだしたきっかけの一つに、学校がインターネットにつながりだしたので、ネットに触れたというのがある。 その授業の時もってたのが銀河お騒がせシリーズでなければ、 その解説が大森望でなければ、当時マジック・ザ・ギャザリングをやり始めてなければ…、 たまたま検索してたどり着いた大森望のSFページに興味をもったりせず、 SFファンにはならなかったのではないかと思ったりしたのだけれど、 これだけの要素がそろっていればそのときでなくともいずれ、 SFファンという人たちの存在は知ったかもしれない。 ネットで冬樹蛉の日記とか読んで面白がって図書館まで行きSFマガジンのバックナンバーを手に取ってみると ファミ通で知ってた水玉蛍之丞が星雲賞受賞をネタに大槻ケンヂとハイペリオンを一緒と恐れ多く感じるというのが 書いてあったのでハイペリオンを読む。これが決定的だったなあ。 普通免許を取る。防府市というのは人口10万人程度で、 夏目雅子の墓があるのと防府天満宮で有名なのかな。あと、航空自衛隊の練習生の基地があるのだろう。制服姿で街にだされる 若者たちの事は人事だったなぁ。 あ、そうそう、小学校のころ読んでたズッコケの那州 正幹が住んでたのでちょっと嬉しかったかもだ。
95年 浪人 とか、勉強とは無縁な生活をしてれば、進学などできるはずもなく、一年間の浪人生活を送る。 勉強しなければとは思うもののやりたい仕事や興味のある学問もなく。 実家が WOWWOW に入ったものでほぼ一日中テレビを見て過ごすなどといった後ろめたい生活を送る。 あと、予備校をさぼって図書館に行ってもついつい読書だけしてしまうとか。両親には内緒だ。 大量に見たはずの映画の内容をさっぱり憶えてないのがさらに腹立たしい。役者の名前とか憶える気がないからなー。 同じく浪人生活を送る友人たちと連んで、アニカラ 6時間とかよく行ったものだった。良くかよ。この親不孝ものめ! しかし、回り道みたいなものはそれはそれで必要であったのかもと思うのだった。 しないほうが良いのだけれど。 そういえば、このころエヴァの本放送をやっていたのだが地方なので放映されなかった。 当然見てやるもんか!と反感をもったのであった。 この作品は学校に通ってる時に見た。と言う人とそれ以降になってから見た。 と言う人で受ける影響力が違うと思うのだけれど、 一番中途半端な時期に一番中途半端な接し方をしたのではないかと思う。 その後だいぶ立ってから映画の奴だけテレビで見た。 なので今いち当時の盛り上がりが実感できないのだった。 洋楽を聴きだしたのがこのころではなかろうか。 先のWOWWOWの影響でミュージッククリップを見てこれは手に入れねば。 と手に入れた曲を聴いてた。だからあまりたくさん聴いてるわけじゃないのだけれど。洋楽の方が好きだぁ。
94年 高3 テーブルトークゲーマーとしてYAを中心に読んでいたものの一応新本格とかを"これはちょっと大人向けの本" という認識で読んでたはず、綾辻行人とかか。 今度シャドウラン遊ぼうぜ!とか言うことで記憶屋ジョニーの映画化で本屋に山になっていたニューロマンサーを読んでみて、 内容が理解できないのに、投げ出せずに二、三日かけて読み、後からストーリーを理解するという奇妙な経験をした。 10年近く前に書かれた本だというのがまず驚いたが SFに面白いものがあるという認識には至らなかった。 ヴァーチャル・ガールも同じ頃に読んだけれど。 こっそり自転車通学などはしなかったけれどこっそり原付の免許をとり、放課後に活用していた。 しかし、これは母の買い物を手伝ったりするためなのだった。ところで夜桜忍法帳って94年だっけ93年だっけ?YAの読者で蓬莱学園シリーズが好きだったので参加したよ。
93年 高2 テーブルトークゲーマーでYAを中心に読んでたはず、 今思えば図書室には海外SFがずらーっとあったのだが喰わず嫌いをしていたなぁ。 動物のお医者さんに図書館の推理小説には毒がしみこんでそうなどと小さい頃の思いこみを語るシーンがあるが、 ここの高校の青背(背焼けしてるけど)には毒がしみこんでそうで手に取れなかった。 かろうじて、冷たい方程式。発狂した宇宙。宇宙船ビーグル号。リトルファジーなんかをここで読んだはず。 なぜ読んだかというとなんかのYAのあとがきで言及されてたとかそういう理由で、ビーグル号は 友野詳 かな。友野詳といえば ルナル・サーガを読んで昔児童向けで読んだレンズマンと似てると思ったので図書室にあった子ども向けでないレンズマンを読もうと思ったのだが、何ページも全然読めなかった。まず、絵がかっこわるくていやだったのだが、ちっとも読めなかったのを覚えている。でも今年かった新訳の奴はすらすら読めるので訳も良くなかったのだろうか。でも新訳は表紙の絵もカッコイイよね。なのでレンズマンは部活の後輩の nago に読ませたっけ。nago の同期の 1031 がクトゥルー物が好きだったみたいだが当時は怖いのはダメだったのだ。 (ところで二人とも作家志望みたいで先輩として嬉しい。何か書いたら読ませれ!) だからというかなんというか SFって古くさくってなんだかなーという印象をもってたっけ。 近所で生まれた犬をもらう。ぼくは犬を飼うのは反対だった。以前の犬はぼくの希望を無視して別れさせたくせに!みたいな。親の飼い主によってオリンピックの開催中だったのでオリンとピックの弟で名はバルセロナからとってパルと付けられていた。まだ生きてます。
92.07 喜入町にお引っ越し 父が家を建てたのだった。しかし、父自身は単身赴任しているのであった。 徒歩通学になる。こっそり自転車くらい乗れよと思うがまじめだったので歩いて通った。しかし遅刻はする。まじめでありたくなかったから。 台風の晩に猫が迷いこんできて、ぼくは台風丸もしくは野分丸と呼ぶこと としたかったのだが、他の家族の陰謀でつづら(姫)と言う名前にされてしまった。めすだったからか。他にも車にひかれ 片腕がぶら下がっている猫(おす)を母が拾って来たのがこの頃。こちらの名はまなん。まだどちらも存命です。 ファミ通とか買いだしたのがこのころか。
92年 高1 実力相応の近所の高校に進学。部活動は図書部。 一応創作系のよそで言う文芸部のはず、平部員としてテーブルトークとかしていた。 あえて言えば、渉外担当か。文芸部で番長してたというと良い例えかもしれない。どんなよ?今でも何でぼくが態度でかいかわからない。みんながおとなしいのだ。 で態度だけでかかったもののなにも書かなかった。 なにか書いてればよかったのにね。アニメは覚えてないな。ヤダモンやってたっけ? 学校の図書館で銀英伝とか田中芳樹を読んだりしたっけ。電撃とか富士見とかもけけ(ハンドル)とかと貸し借りしたっけ。
91年 中3 あまり受験勉強とかはしなかったのだけれど、親が周りから薦められたせいで塾に通った。 不思議の海のナディアやら少年アシベが見られないのがかなしくてねぇ。ってちゃんと勉強しろよ。 このころから 花ゆめ とか lala とか読んでたんじゃないかな。 少年誌ではコミックコンプか、会社独立とかの大人の事情が推察される突然の変化は地方の少年にはさっぱりわからず、とりあえず、衝撃的だった。 お家にCDプレーヤーが来てCDが聴けるようになったので、買いだしたのがこのころか。花ゆめコミックスで書いてる作家の柱 とアルスラーン戦記の主題歌とどちらが 先だったか分からないが 遊佐未森とかめちゃめちゃ聴いてたんだけど、こういうクラスの中で何人もが知らないようなアーティストがなぜ大人になってから知り合ったSFの人の誰も彼もがファンなのだったりするのだろう? あと、サディスティック・ミカ・バンドとか。谷山浩子とかにも惹かれてたんだけどSFの人(以下略)
90.10 鹿児島市にお引っ越し 引っ越した先の中学校の図書室でグリーンノウシリーズとかスーザン・クーパー。こちらの友達がTRPGをやっていたので引きずり込まれる。うんすい 、もけけ、Eichとかに出会ったのがこのころだ。他にもいるのだが、ハンドルを持っていないので紹介できないのだ。サイコロを振りまくる青春。みたいな。引っ越した先で、ラジオとか聞き出したのがこのころかなぁ。ローカルAM局のアニソン専門のリクエスト番組と青春アドベンチャー(だかサウンド夢工房だか)の時間が重なるのが悩みだった。引っ越すとテレ朝系が映るようになってちょっと嬉しかったね。猫の名はマサムネ。
90年 中2 赤木かん子氏の著作などブックガイド的なものの存在を知って、人の薦める本に興味を持つようになった。これでランサム全集から何冊か読んだがここの図書室には全部はなかったのだった。小学校の時には一度もおなじクラスにはならなかったが嫌いでもなかった友達と何故か急に親しくなり、図書館の近くにそいつが住んでたので良く遊びにいった。まあ今でも友達だが。
89年 中1 町立図書館になく、中学校の図書室にあったプリディン物語とか読み出したのと小遣いでYAとか買いだした頃だと思われる。田舎でもビデオやが流行りだしたのか帝都物語をみんなで見るかなんかしたのをきっかけに小説の方を読んだりしたのだった。アニメ三銃士がこのころ?前?あれ、グランゾートの時って中学に上がってたんだっけ? 部活動は卓球部。クラブ活動(授業内にやる奴)は演劇クラブ。ベルリンの壁が崩れたのがこのころだと思うが、ちょうど誕生日でその日は不良に絡まれ殴られた日だったので覚えている。世界へちょっと未来へ希望を持たせるようなニュースが入って来ているのに、それを普段ならもっと喜んでいるはずなのに何故、こんなみじめな気持で聞いているのだろう。何があの少年を暴力に走らせているのだろう。みたいな。
88年 小6 レンズマンとかおんぼろ宇宙船シリーズ、おんぼろ宇宙船はもっと以前から読んでて完結までたどり着いたのがこのころということで、テレパシーうさぎのミニムさんたちがちょー可愛かった。とか書いてて今 web で ミニム を検索したんだけど ヒットしなかった。だれもミニムのことしらないの? 脳内読書? 国内ものは松谷みよ子を好んで読んでたはず。 あとはズッコケ三人組シリーズかな。 突然、子ども向けに百人一首を教える集まりというのを 小学校低学年の時の校長先生で、当時は図書館長をしていた 先生が毎週土曜に始めたので行っていた。集まりと言いつつも ぼくとあともう一人二年生の女の子しか来てないのだった。 毎週三人でテープに読んでもらってカルタ取り。 可愛い子だったけど名前も覚えてないや。頭のいい子だったんだねぇ。 今思えばもっと仲良くしておけば良かったなぁ。 六年生にとって低学年の女の子と一緒に遊んでるって ちょっと(っていうかだいぶ)気恥ずかしいじゃん。 学校であっても会釈だけ。みたいな。 わーん。ばかばかばかばか。>自分。 四つ下かあ、今年(2002年)で22じゃん。 とほほ。おかげで中学校に行ってから古典に困ったりはしなかったのだった。 でも古典が特別大好きでもなかったなぁ。 6年か、魔神英雄伝ワタルがこの頃か前後だと思うのだけれど…。それとももうグランゾートなのか。わからぬ。
87年 小5 児童向けSFの叢書とか読んでたはず。あと、グランパシリーズぽっぺん先生とか。あと、子ども向けの落語の内容をリライトした本だね。実際の落語ってどんなだろう。田舎でなければ見られるのかな。と思ってた。現在(2002年)もまだ見たこと無いのだった。見るで良いのか?小公氏セディがこのころだと思う。4年の時の担任の先生がミニバスを始めたので学校でブーム。部活動に入った。太り気味だったから親は喜んだ。運動自体は嫌いじゃないのだが、うまくはならなかった。
86年 小4 校舎が変わり小さい方の第一図書室を利用していた。神話ものとか好きだったはず、星座の話とかね。その実星自体は眼がわるいとうすらぼんやりとしかわからず、すっぱい葡萄状態であまり興味がなかった。。一応椋鳩十とかも読んでたような。このころからアニメを見るのは子どもっぽくてちょっと嫌という抵抗が無くなって手放しで見るようになった気がする。ワンダービートスクランブルの打ち切りに触れ。最後まで終わらせてもらえない物語の無念さに思いをはせたのがころころだと思う。あと、頑張れキッカーズとかか。親に誕生日を忘れられたのがショックだった。サプライズというかわざと忘れた振りをしているのだろうと思っていたのだ。ショックに感じるあたりがかわいらしいではないか。とかいいつつまだ忘れていないのはねに持っているということなのか。
85年 小3 ヤンソンやマガーク探偵団、少年探偵ブラウンを好んで読んでたはず。この学校は三年生だけ校舎が別で第二図書室(大きい方)が三年生校舎と一緒だったので重宝したのだった。本を読んでると名前を呼ばれても分からないので、ぼくにムシされたと思う子が多かったことよ。ごめんね。
84年 小2 角野栄子の魔女の宅急便じゃないやつとか好きだったみたい。おばけのアッチ、コッチ、ソッチ。とかね。ドリトル先生を読み出したのがこのころかそれより後か良く分からない。二年生か〜。何していたのか。
83年 小1
与論島内で引っ越し
何が好きだったか憶えていない。5人くらい選抜で感想文を書くために昼休みに呼びつけられたらしいのだが、その時間遊んでいてこっぴどく叱られたことがあるので傍から見ても本は好きだったはず。忘れていたということにされたが、絶対に聞いてない。と思ったもののそれを説明できなかった。という事をぼんやり憶えている。しかし今思うにぼくのことだ。音が聞こえるところにいても耳に入っていなかったに違いない。猫を飼っていた名前はジロウ。さすがにもう生きていない。タロウという兄猫もいたはずで、命名の元は南極物語だったらしい。タロウはネコイラズに当たったネズミに当たったのを父が発見して我々兄弟には 内緒に行方不明になったことにしたとのこと。それならそれで墓の前で手ぐらいあわせてやりたかったものだが…、なんか量を増やすために後から動物ネタを書き入れてるのだけれど、明るい話じゃなくてごめんね。
82年 幼稚園 このころ、ある日突然目が悪くなった。ある晩突然。視界に虹が架かって見えるようになったのだ。例えば部屋の中蛍光灯の方を見ると虹が見える。頭がおかしくなったのではなく目がおかしくなったのだとは自分でも分かっているのだけれど、それをきちんと説明できないかもしれない。下手に突然、虹が見えると言い出したらお父さんとお母さんは心配するかもしれない。と思いつつも、心配されてみたい。親の優しさを試してみたいという気持ちもあり、わざと「虹が見える。」などという言い方をしたはずだ。我ながらどうかと思う。ちゃんと説明しようとしても良かったのに。しかし、親も目に問題があるとは分かったらしかった。とりあえずその日は様子見ということで寝たものの。翌朝、目が開けられないくらい、目ヤニがでてぼくもびっくりだが父と母はもっとびっくりだったらしい。沖縄か奄美かどちらか分からないが島以外の病院に連れて行かれたような気がする。貧乏では無かったが特段お金持ちでも無かったので父と母にはきつかったのではなかろうか。いつか聞いてみなければ。結果それよりあと眼鏡をかけ始める人生に…。あ、そうそう。初めて眼鏡をかけて幼稚園に行ったとき、二人いる先生の偉い方の隣の組の先生から、前に呼ばれ、今日から目が4つあるお友達がいます。とかなんとか頭の悪い説明をされて、酷く腹立たしかった。だいたいその朝礼みたいな場所で初めてそれを知る奴なんかいなくて、みんながすでにさんざん噂してぼくの顔を見に来た後だったというのに、その白々しい子どもだまし風の口調。しかし、その先生は偉い方で、怖い方でもあったので、まあ子ども向けに説明するには仕方の無いかも先生も大人なんだからバカっぽいしゃべり方をするのは本当は嫌なのかも。と思い自分を納得させたのだった。内心ではいろいろな事を考えつつもそれを人に感づかれてはいけない。人と違うと言うことがばれてははいけない。ということをこのころから思っていたみたい。でもそれって別に普通だよね。ね?小さい頃に思ったことを正直に言う子だったらなぁ。と思う。当時の写真。可愛いよ。
与論島以後 与論島で育つ 与論島というのは鹿児島県の最南端に位置する小さな島で、沖縄本島の北の先が見える所にある小さな島で人口は7000人ちょっと(当時)、川がなく、標高は一番高い所で100m 前後らしい。だから水は地下水にたよる。しかし島の成り立ちは珊瑚礁の隆起によるものなので、水は石灰が熔け込んでいるので、水道の水もうえっとなるくらい飲みにくい。まあ住んでるとなれる、鹿児島に来て水の甘さにびっくりしたっけ、洗濯機のそこのほうにときどき白い塊ができるくらい。まあ今はどうだかしらないよ。しかし、一説には与論のほか沖永良部島がおなじような成り立ちで出来ていてハブ(猛毒のヘビ)が住めないのと、長寿の秘密はこの水にあるのかもしれないとか。などというのが中二の途中まで住んでたぼくが仕入れた知識。与論の事を調べようとして検索できてこれを読んでる人が真に受けたりしないように。島の主要な産業は観光とさとうきびの栽培。成人式を機に帰ったときには電照菊のビニールハウスが夜の中にともってたりして驚いたが、どうなんだろう。さとうきび畑の風景がやはり心の中に残っている。 まあ綺麗なのが自慢なところか。これは子どもの感想であって、大人がいくとむちゃくちゃに焼酎をのむところでもあるらしい。嘘だと思ったら、鹿児島県内で転勤をしなければならない職業の人(例:教師等)を捕まえて与論がどんな所か聞いてみれば良い。飲みすぎるのは唯一にして最大の欠点で未成年の飲酒問題なども頭がいたいところかも。まあ娯楽が少ないところだからね。映画館という存在にはちょっと憧れがあった。 この規模の町にしては立派としか言いようがない町立図書館があるので教育にも熱心なところがある島なのではないだろうか。 デザインが適当で屋根にシャチホコとかがあるのは御愛敬。
与論島以前 ものごころつく前 記憶が不確か。当り前か。 屋久島の何カ所と出水郡という鹿児島の北の方と引っ越ししたらしい。屋久島では犬を飼ってたのだが、引っ越す祭、隣家から猿対策のために譲っていってくれないかと言われて譲ってしまったのだそうだ。がーん。
76.11 種子島に生まれる 母の話では、体重が2650グラムで生まれて、保育器にはいるかどうかのぎりぎりのラインにいたそうだ。乳をすする体力もなかったとか、初めての子だったため母は赤ん坊というのは思っていたよりもおとなしいものだと思ったそうだが、泣きわめく元気さえなかっただけらしい。母と同室になってくれた母親業のプロ達の観察眼がなければ十分な栄養を摂取することが出来なかったかも。この時点で命の恩人が4、5人いるわけだ。